きみの隣で、冬がはじまる 目次

第9話

手のひらの冷え

朝、海沿いのコートで、俺はゴールポスト代わりのコーンに正面から突っこんで転んだ。

「下手か!」

翔が腹を抱えて笑う。俺はわざと大げさに芝の上で伸びて、審判もいないのにファウルだと手を挙げた。みんながもっと笑う。拾ってくれる相手がいるから、滑っても平気だ。全開でふざけて、全開で返される。この気楽さが、学校のあの隣の席にはない。

土曜だ。先週と同じ、海沿いの人工芝のコートに、地元の中学の連中が六人ばかり集まっていた。大地は今日も午後から部活で、顔を出すだけ出して先に帰った。残ったメンバーで、点を取ったら交代の雑なルールで蹴りあう。

コートに着いたのは九時過ぎだった。坂を下って国道を渡るまでのあいだ、自転車のハンドルが素手の手のひらを下から冷やしてきて、信号で止まるたびに俺は指を握りなおした。海は朝の光で平らに光っていたけど、そのぶん遮るもののない風が強くて、人工芝を囲うネットの端が、かたかたと小さく鳴っていた。先に着いた連中が、芝の上で足ぶみしながら白い息を吐いている。ゴムチップの匂いが、冷えた空気にうっすら混じっていた。

海からの風が、先週より一段低いところを吹いていた。素手でボールを拾うと、指先が赤くなって、感覚が薄い。吐く息が、ゴールの網の向こうで白く散った。空は高く晴れているのに、風だけが冬を連れてきていた。

ボールが人工芝を擦る乾いた音と、誰かの笑い声が、風にちぎれて飛んでいく。点を取られるたび、ネットの裏まで転がったボールを拾いに行くのが、じゃんけんで負けた俺の役目になっていた。何度も往復しているうちに、手のひらの感覚が、だんだん遠くなっていく。ボールの縫い目の硬さだけが、やけにはっきり指に残った。

「俺さ、今日の夜バイト入ってんだよな」

休憩中、翔が芝に座りこんで、スポーツドリンクを飲みながらこぼした。駅前のコンビニで、土日は夜も入れられるらしい。

「受験なのにバイトすんの?」

「金ないと塾も行けねえじゃん」

そういうもんか、と俺は言って、ペットボトルの水を一口飲んだ。みんな、それぞれの冬を少しずつ抱えている。笑っているあいだも、どこかで。

交代、と誰かが叫んで、俺はまた芝に立った。二試合ぶん蹴って、十一時を回るころには、みんなの息が上がって、笑いながらそれぞれ帰り支度をはじめた。翔が、夜勤がんばれよ、と茶化されて、うるせえ、と笑い返している。俺は自転車にまたがって、来たときの坂を、今度はのぼって帰った。坂の途中、どこかの家の生け垣に、赤い花が咲きはじめていた。山茶花だと思う。椿より早い、冬のはじめに咲くやつだ。去年は、通っても気づかなかった。

昼前にいったん家に帰ると、居間のテレビで、立冬がどうのとやっていた。

父がこたつに足を突っこんで、画面を見ながら、今日からか、とつぶやく。ゆうべ、明日から暦の上は冬らしいぞ、とひとりごとを言っていた、あの『明日』が、今日だった。カレンダーを見れば、十一月七日の土曜に、小さく立冬と刷ってある。

「お兄ちゃん、芝くさい」

千夏がソファの上で鼻をつまんで言った。こたつでスマホをいじったまま、顔も上げない。

「嗅ぐな」

「嗅がなくても分かる」

母は歯科の仕事で、土曜も昼まで出ている。台所に、父がつくったらしいインスタントの味噌汁の匂いが残っていた。俺は手を洗って、冷えた指先を蛇口の湯にしばらく当てた。感覚が戻ってくるのに、思ったより時間がかかった。

冷蔵庫に、母が朝のうちに握っておいたらしいおにぎりが、ラップにくるまれて二つ残っていた。俺はそれを味噌汁で流しこんで、昼にした。千夏はこたつから動かないまま、自分のぶんのおにぎりを片手で食べている。テレビはもう立冬の話を終えて、天気予報に変わっていた。来週あたり、また一段冷えるらしい。画面の中の予報士が、朝晩の冷えに気をつけて、と言っていた。

午後、自分の部屋で、俺はなんとなく自分の手のひらを見ていた。

部屋は静かで、階下から千夏のつけたテレビの音が、かすかに上がってくるだけだった。カーテンの隙間から入る午後の日が、床板の上に細い線を一本引いている。その線が、さっきより少しずつ壁のほうへずれていくのを、俺はぼんやり眺めていた。

朝の冷えが、まだ指の付け根のあたりに残っている気がした。湯で温めたのに、芯のほうが冷たい。こういう手のひらを、毎朝持っている人がいる。ふと、そう思った。

木曜の朝の、隣の指先を思い出した。窓際のいちばんうしろの席は、朝がいちばん冷える。本の端にそえた指が、赤かった。低い光が机の木目を這い上がって、その赤みが少しずつ薄くなっていくのを、俺は黙って見ていた。

あの人は、十月の終わりから、もうマフラーをしている。クラスの誰より早い。理由は知らない。ただ、寒さが人より早く来る人がいるんだということだけ、今日の自分の冷えた手のひらで、半歩分かった気がした。立冬が、暦の上の話じゃなくて、誰かの体のほうに、もっと早く来ているのかもしれない。

窓の外は、もう橙が混じりはじめていた。五時前なのに、十一月の日は低い。海のほうが、灰色に沈んでいく。

夜、布団に入る前に、俺はスマホでインスタのストーリーを流し見していた。

地元の連中が、フットサルの動画を上げている。翔が、コンビニの制服姿で〈これから夜勤〉と自撮りを載せていた。指でとんとん送っていくと、画面の丸いアイコンが、次から次へと切り替わっていく。

佐伯さんのアイコンのところで、俺の指が止まった。

クラリネットのケースが床に置かれた、吹奏楽の練習の写真。そのあと、二枚目に切り替わった一瞬、端のほうに、生成り色のマフラーが映った。

あの人だった。

カフェか、誰かの家か、よく分からない。テーブルの向こうで、佐伯さんがピースをして笑っている。その横で、一ノ瀬さんが、口もとに手をあてて、少しだけ笑っていた。弟の話をしたときと、同じ手のあて方だった。ほんの数秒で、ストーリーは最初に戻って、またクラリネットのケースから流れはじめた。

俺は親指を画面の上で止めたまま、その数秒を、二回、三回と見返した。タップすれば、ストーリーは途中で止められる。でも止めたら、なんだか盗み見ているみたいで、俺は止めずに、流れるにまかせた。クラリネットのケース、ピースをする佐伯さん、その横の、口もとの手。順番に、また同じ速さで過ぎていく。

週末も、あの人は、ちゃんと友達といる。立冬の、風の冷たい一日を、保健室のベッドじゃなくて、笑える場所で過ごしている。それが分かっただけで、俺はなぜか、布団の上であぐらをかいたまま、しばらく動けなかった。

佐伯さんのストーリーの下に、返信の欄があった。何か打とうとして、俺は〈このマフラー〉まで打って、消した。打ち直して、また消した。これは佐伯さんのストーリーで、あの人のじゃない。それに、何を言えばいいのか、分からなかった。おはようも、謝りの残りも、本のタイトルも言えていないのに、週末のあの人に、俺から言葉を送る資格みたいなものが、まだ自分にない気がした。

ストーリーは、もう一周して、次の人のアイコンへ流れていった。

枕もとで、スマホの画面だけが明るかった。ほかの部屋はもう静かで、廊下の向こうから、父のいびきがかすかに聞こえた。

俺はスマホを伏せた。画面が暗くなる。部屋の暖房を切ると、足もとから冷えが上がってきた。もう一度、自分の手のひらを見る。朝の冷えが、まだどこかに残っているみたいだった。その手を、俺は布団の中に入れて、指を一本ずつ、ゆっくり折りたたんだ。

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