第8話
反対側
朝の坂で、ハンドルを握る手だけが冷えていた。
金曜だ。席替えのくじを引いたのが先週の金曜だから、今日でちょうど一週間になる。十月の終わりに三十番を引いて、あの人の隣になって、まだ七日しか経っていない。もっと長い気もするし、あっという間な気もした。
空は端まで澄んでいて、国道の信号で止まると、海が低い光に平らに光っていた。富士山の輪郭が、朝のうちだけくっきり見える。坂の落ち葉は側溝のへりにまた厚くなっていて、タイヤが踏むとかさっと鳴った。どこかの家から、焼いたパンの匂いがした。
下駄箱で上履きに替えて、三階まで階段をのぼる。手すりが、つかむたびに冷たい。廊下の窓から差す光は低くて、床のタイルに格子の影を長く落としていた。
教室の引き戸を開けると、中はもう声をひそめていた。
朝読書の時間だ。みんな自分の机で本を開いて、ページをめくる音と椅子のきしむ音しか聞こえない。暖房はまだ足もとに届いていなくて、床だけがひんやりしている。
窓際のいちばんうしろ。俺の隣では、一ノ瀬さんが白い背の文庫本を開いていた。生成り色のマフラーを椅子の背にかけて、指先を本の端にそえている。
俺は音を立てないように椅子を引いて座った。机と机のあいだには、あいかわらず十二センチの隙間がある。おはよう、は今日も口の中で止まった。
筆箱を開けて、シャーペンの芯をかちかち出しかけて、やめた。そのかわりに、隣の本の背を、そっと見た。
しおりの紐が、動いていた。月曜から水曜まで、同じあたりで止まっていたのに、今朝は、それよりほんの少しだけ、先へ進んでいる。指二本ぶんくらいだろうか。戻って読む人が、戻りながらでも、ちゃんと前へ進んでいた。
俺はそれを、何も言わずに見ていた。言葉にしたら、たぶん消えてしまう気がした。やがて始業前の小さいチャイムが鳴って、一ノ瀬さんがしおりをそのページにはさみ、白い背を閉じた。
五時間目は体育だった。
金曜は男女別で、男子は外でサッカー、女子は体育館でバレーをやる。先週の金曜は、一ノ瀬さんがジャージの袋を持たずに、佐伯さんに背中を支えられて保健室へ行った。六時間目の前に、顔を少し白くして戻ってきた。あの日のことが、どうしても頭をかすめる。
でも今日は、体育館のほうから、バレーボールを打つ乾いた音と、女子の声が、風に乗ってときどき聞こえてきた。あの中に、あの人がいるのかは、ここからは分からない。それでも、保健室のベッドではなく、体育館の床の上にいるんだろうと思える音だった。それだけで、ボールを蹴る足が、少し軽かった。
「おい、集中しろ」
大地がパスを出しながら言う。俺は少し強めにトラップして、何でもない顔で蹴り返した。晴れているのに、ボールを蹴るたび冷たい風が耳に当たった。土のグラウンドから、白っぽい砂ぼこりがうっすら舞う。毎週、倒れるわけじゃないんだ。そのことを、今日は確かめられた気がした。
放課後、俺は現代文で借りた本を鞄から出した。
先月、課題のために図書室で借りた短編集だ。返却の期限が今日までで、昼休みに出しそびれていた。掃除を終えてから、一階の奥の図書室へ向かう。廊下はもう人がまばらで、窓の外は橙に傾きかけていた。五時前なのに、十一月の陽は低い。
図書室の引き戸を開けると、紙とほこりの、乾いた匂いがした。奥の書架のあいだに、放課後の斜めの光が差しこんでいる。返却カウンターのほうへ歩いていって、俺は足を止めた。
カウンターの内側に、一ノ瀬さんが座っていた。
当番の札が、カウンターの端に立ててある。そうか、図書委員だった。前に誰かがそう言っていた気がするのに、今やっと、目の前の光景と結びついた。市立図書館では、あの人は返しに来る側だった。ここでは、カウンターの反対側にいる。
一ノ瀬さんは、俺に気づいて、ほんの少し肩を動かした。でも席を立ちも、机を引きもしなかった。あいだに、このカウンターがあるからかもしれない。
「……返却、です」
俺はそう言って、短編集をカウンターの上に置いた。手渡しはしない。あの人のほうへ、角を合わせて滑らせる。
一ノ瀬さんは、本を指先で自分のほうへ引き寄せた。手は、触れなかった。パソコンの画面に向きなおして、本の裏のバーコードに、小さな読み取り機をかざす。ぴ、と電子音が鳴った。
「……大丈夫、です。期限内で」
声は小さかったけど、カウンター越しだと、不思議と聞き取れた。事務の言葉だからかもしれない。この仕切りのぶんだけ、あの人は少しだけ、話しやすそうに見えた。
今だ、と思った。言うなら、今しかない。
「あの」
一ノ瀬さんの手が、キーボードの上で止まる。俺はカウンターの縁を、意味もなく指でなぞった。
「この前の、図書館の……変なこと、して」
力こぶのポーズのことだ。笑いもツッコミもなく滑った、あの沈黙のこと。ちゃんと言葉にしておきたかった。なかったことにして、流してしまいたくなかった。
「すみません、でした」
言い終えて、俺は少し下を向いた。許してほしいというより、あの土曜を、ちゃんと二人のあいだに置いておきたかった。
一ノ瀬さんは、しばらく画面を見ていた。それから、ほんの一瞬だけ、顔を上げた。目が合ったわけじゃない。俺の手もとの、返した本のあたりに、視線が来ただけだ。
「……べつに、いやでは、なかったです」
半歩ずれた答えだった。滑ったことを責めるでもなく、笑うでもなく。いやではなかった、とだけ。
返却の済んだ本を、一ノ瀬さんはカウンターの内側の棚に、背を立てて置いた。俺のいたほうに、背を向けて。
家に帰って、夕飯を食べて、風呂に入って、部屋に戻った。
居間を通ったとき、父がテレビの前で、明日から暦の上は冬らしいぞ、とひとりごとみたいに言っていた。千夏はこたつで、顔も上げずにスマホをいじっている。母はまだ帰っていなかった。
机の前で、筆箱を開けた。二つに折れたくじの紙と、くしゃくしゃの貸出レシートが、いつもの場所にある。三十番の紙を、指でそっと伸ばした。一週間、同じ場所に入れたままだ。
謝りは、半分しか言えなかった。変なことをした、すみません、まではたどり着いたけど、あのとき本当は、話したくて滑ったんだ、というところは言えなかった。おはようも、本のタイトルも、まだ全部そのままだ。
でも、いやではなかった、と、あの人は言った。
俺はくじの紙をもう一度折って、筆箱に戻した。閉じる前に、しおりの進んだぶんの、指二本ぶんのことを、もう一回だけ思い出した。
声を読み込んでいます…