第7話
戻る場所
「お兄ちゃん、今日は見えるんじゃないの、富士山」
洗面所の鏡の前で、千夏が顎で窓の外をさした。木曜の朝だ。昨日の朝はかすんで、どこにあるのかも分からなかったのに、今朝の空は端のほうまで澄んでいる。父がゆうべ、明日もよく晴れるらしい、と天気予報を見て言っていた。そのとおりになった。
「歯みがきしながらしゃべるな」
「出た、兄の説教」
俺はパンの最後の一口を押しこんで、鞄を持った。玄関を出ると、外の空気が頬に冷たい。吐いた息が、少しだけ白く残った。
坂を下る。自転車のハンドルが、握った手のひらを下から冷やしてくる。昨日の朝も冷えていたけど、今日はそれよりもっと低いところに、冷気がたまっているみたいだった。それでも空は高くて、国道の向こうで海が朝の光に平らに光っていた。
坂の途中で、一度だけ顔を上げた。海の向こうに、富士山の輪郭がくっきり戻っている。
教室の引き戸を開けると、中はもう声をひそめていた。
窓際のいちばんうしろ。俺の隣では、一ノ瀬さんがもう白い背の文庫本を開いていた。生成り色のマフラーを椅子の背にかけて、机の上で、指先を本の端にそえている。その指先が、少し赤かった。窓際の席は、朝いちばん冷える。暖房はまだ足もとに届いていない。
俺は音を立てないように椅子を引いて座った。机と机のあいだには、あいかわらず十二センチの隙間がある。おはよう、は今日も、口の中で止まった。
やがて、低い冬の光が窓の下から机の木目を這い上がってきた。指先に当たると、そこだけ、じんわりあたたかい。隣の指の赤みが、その光の中で、少しずつ薄くなっていくのが見えた。
三時間目は、数学だった。
森先生が入ってくるなり、この前のテスト返すぞ、と言った。先週の授業で解いた、関数の小テストだ。先生がまとめて丸をつけて、返す回だった。名前を呼ばれた順に、答案が手から手へ回ってくる。俺のところにも戻ってきた。ちらっと見て、すぐ裏に返した。点は悪くなかった。でも、裏返したまま机の端に伏せておいた。隣で見せびらかすようなものじゃない。
一ノ瀬さんの答案も、回ってきた。隙間越しに、俺の目の端に、それが映る。赤が、多かった。問いの横のほうに、小さな丸や点が、びっしりついている。一ノ瀬さんは答案を手前に引き寄せて、いちばん赤の多い一問の横に、細いシャーペンで『?』と書いた。あの、自分でつける印だ。
国語が得意で、ノートの字がきれいなあの人が、数学は苦手らしい。俺は、そのことを今まで知らなかった。
「じゃあ直しな。分からないとこ、手ぇ挙げて」
森先生が、机のあいだを回りはじめた。あちこちで手が挙がって、先生がかがんで、消しゴムのかすを払いながら説明していく。
森先生が、俺たちの列に来た。
一ノ瀬さんの机の横で、ひざを折って、答案をのぞきこむ。
「一ノ瀬、ここな、符号じゃなくて、そもそも式の立て方が――」
途中から、空気が変わった。
一ノ瀬さんの肩が、きゅっと上がった。背中が、椅子の背もたれから浮いて、まっすぐ固くなる。シャーペンを握った指が止まって、目は答案の一点に落ちたまま、先生のほうを見ない。マフラーの端を、もう片方の手でつかんでいる。
男子が近くに来たときと、同じだった。席替えの日に、俺の机が近すぎたときの、あの固まり方。それが今、森先生の声のそばで出ている。小野寺先生の前では、見たことがない。
森先生は、気づかなかった。式の立て方な、もう一回やってみ、とだけ言って、立ち上がって次の机へ行った。悪い先生じゃない。ただ、見えていなかっただけだ。
一ノ瀬さんは、固くなった背中のまま、答案に向かっていた。シャーペンは動かない。『?』の横で、止まったままだった。たぶん、どこからやり直せばいいのかが、分からない。
俺は、自分の答案を裏返した。
手渡したりしない。のぞきこんだりもしない。それをやったら、たぶんこの人は、もう一センチ机を離す。
俺は、自分のノートを開いて、同じ問いを解いた箇所を出した。答えは書かない。途中の式に、ここ、という場所だけ、点を打つ。そこから二つ上の行に、小さな矢印を引いた。ここまで戻れば、あとは一本道だ、という矢印。あの人が、本を何度も同じところまで戻って読むみたいに。
ノートの、その矢印のある端だけを、十二センチの隙間の、半分くらいまでそっと押し出した。角を、机の縁に合わせて。
一ノ瀬さんの目が、動いた。
しばらく、矢印を見ていた。それから、指先でノートの端を自分のほうへ引き寄せる。手は、触れなかった。紙の端だけを、つまむように。
矢印の先の行まで戻って、そこからもう一度、自分の答案に書き直しはじめた。シャーペンが、小さく動く。やがて、さっき『?』を書いた横に、小さな丸がついた。いつもどおりの、同じ形の丸だった。
「……ありがとう、ございます」
声は、相変わらず小さかった。でも、そのあとに、半歩だけ、続きがあった。
「わたし、数学、だめで。……どこから、まちがえたのかも、分からなくなるんです」
敬語のままだった。目も、合わなかった。それでも、だめで、と自分から言ったのは、はじめてだった。
俺は、へえ、とだけ返しかけて、やめた。全部一回で解いちゃう俺とは大違いだな、は言わない。土曜の二の舞になる。
「戻る場所さえ分かれば、あとは平気だよ」
それだけ言って、ノートを自分のほうへ引いた。チャイムが鳴って、森先生が黒板を消しはじめた。
昼休みのグラウンドは、晴れているのに風が冷たかった。
ボールを蹴るたび、乾いた土から白い砂ぼこりが少し舞う。大地が半袖のジャージでドリブルしてきて、「お前、数学いくつだった」と聞いた。
「まあまあ」
「まあまあって何点だよ。言えって」
俺は返事の代わりにボールを強めに蹴り返した。一ノ瀬さんのことも、矢印のことも、ここでは言わない。言ったら、ぜんぶ軽い話に変えられてしまう。
大地は追いついて、ボールを足裏で止めた。
「お前さ、数学だけは、ほんと教えんの下手だよな。俺が聞いても、いっつも『自分で考えろ』しか言わねえし」
俺は、少しだけ足が止まった。今日は、考えろ、とは言わなかった。戻る場所だけ、渡した。
「今日は、言ってない」
「は? 何が」
「べつに」
大地が、べつにって何だよ、と笑って、ボールを蹴ってきた。俺はそれをトラップして、今日は三階のほうを見上げなかった。あの人が昼休みにどこで本を読んでいるのか、わざわざ探さずにおいた。
放課後、掃除を終えて外に出ると、空はもう橙に傾いていた。
五時前なのに、十一月の日は低い。自転車で坂をのぼると、海のほうは灰色に沈んで、朝あんなにくっきりしていた富士山は、もう暗がりに紛れて見えなかった。
家に帰って、夕飯を食べて、風呂に入って、部屋に戻った。机の前で、筆箱を開ける。二つに折れたくじの紙と、くしゃくしゃの貸出レシートが、いつもの場所にあった。
数学が得意なことを、答えじゃなく、戻る場所を渡すのに使えたのは、今日がはじめてだった。
それでも、おはようは今日も言えなかった。土曜の謝りも、本のタイトルも、まだ全部そのままだ。
俺は、ノートをもう一度開いた。さっきの矢印の、二つ上の行。あの人が指先で引き寄せた、その端が、ほんの少し折れていた。俺はその折れ目を、指で伸ばさずに、そのまま閉じた。
声を読み込んでいます…