第6話
戻って読む
坂の途中で、ブレーキを握った指先の感覚が、もうなくなりかけていた。
水曜の朝は、北風がやんだぶん、冷えだけが低いところにたまっていた。自転車で坂を下るたび、その冷えが手の甲を這い上がってくる。手袋を持ってくればよかった。並木の落ち葉は、おとといよりまた厚くなって、側溝のへりに吹きだまっていた。タイヤが踏むと、かさっと乾いた音が鳴った。
どこかの家から、味噌汁みたいな匂いがした。潮の匂いより先に、それが鼻に届く。祝日をはさんだせいで、学校へ向かう坂が、やけに久しぶりに感じた。
坂の下のほうで、同じ制服が何人か、同じ方向へ流れていく。みんな背中を丸めて、首をマフラーやカラーにうずめている。二日休むと、この時間の流れ方そのものを、忘れてしまいそうだった。俺はペダルを止めて、惰性のまま、その列のうしろについた。
国道の信号で止まると、海が朝の低い光で平らに光っていた。おとといの朝はあんなにくっきり見えた富士山の輪郭が、今日はかすんで、どこにあるのかも分からない。同じ場所から見ているのに、日によって、ぜんぶ姿が違う。
下駄箱で上履きに履き替えて、三階まで階段をのぼった。手すりが、つかむたびに冷たかった。廊下の窓から差す光は低くて、床のタイルの目地に、俺の影が長く倒れていた。
教室の引き戸を開けると、中は声をひそめていた。
朝のこの時間は、みんな自分の机で本を開いている。始業前の十分くらい、教室ぜんぶが静かになる。ページをめくる音と、どこかの椅子がきしむ音しか聞こえない。
窓からの低い光が、床に窓枠の影を長く落としていた。格子の影が、前の席のやつの椅子の脚まで届いている。暖房はまだ入ったばかりで、足もとだけがひんやりしていた。
窓際のいちばんうしろ。俺の隣。
一ノ瀬さんは、もう来ていた。生成り色のマフラーを椅子の背にかけて、机に文庫本を開いている。カバーのない、白い背のやつだ。おとといの朝に見たのと、同じ本だった。
俺は音を立てないように椅子を引いて座った。机と机のあいだには、あいかわらず十二センチの隙間がある。
筆箱を開けて、シャーペンの芯を意味もなくかちかち出した。おはよう、の一言が、おとといから止まったままだ。土曜の図書館でやらかした滑り——本、借りすぎて腕、鍛えられてる、と作った力こぶ——あの沈黙が、まだ二人のあいだに残っている。
芯を一度しまって、また出した。出しすぎた芯が、机の上にぽきっと折れて落ちた。俺はそれを指先でつまんで、筆箱のへりに寄せた。
月曜も、結局言えなかった。火曜は祝日で、会わなかった。このまま水曜もまた飲みこんだら、きっかけはもう二度と来ない気がした。
俺は、隣の本の背をちらと見た。しおりの紐が、おとといと同じあたりから、ほとんど動いていなかった。何日も、同じところにいるみたいに。
声をかけるなら、本のことは聞かない、と自分に言ってあった。何ていうタイトルですか、は言わない。あれは、あの人の口から聞きたい。
だから俺は、いちばん軽いところだけを選んで、小さく言った。
「……それ、長いやつ?」
一ノ瀬さんの肩が、ほんの少し動いた。ページから目を上げて、でも俺とは目を合わせないまま、本の表紙に視線を落とす。
「長い、わけでは、ないです」
半歩ずれた答えだった。長いか短いかでも、ページ数の話でもなくて。
「ゆっくり、なので。何度も、同じところを、戻って読むので」
声が小さくて、半分はよく聞こえなかった。でも、逃げてはいなかった。机を、それ以上ずらしもしなかった。マフラーのはしを片手でそっと直して、また膝の上に手を戻す。
戻って読む。だから、しおりがあんまり進んでいなかったのか。おとといと、同じあたりに。
俺は、へえ、とだけ返した。いつもなら、ここで何か足す。全部一回で読んじゃう俺とは大違いだな、とか。でも足さなかった。足したら、土曜の二の舞になる。
一ノ瀬さんは、少し黙ってから、こう言った。
「一回で読むと、……もったいない、ので」
もったいない。その言葉を、俺は口の中でもう一回なぞった。あの白い背の中に何が書いてあるのか、俺はほんとうは、半分だけ知っている。でも知っているふりはしたくなかったから、知らない顔で、もう一回だけ本の背を見た。
隣で、一ノ瀬さんがページに指をそえたまま、しばらく動かなかった。読んでいるのか、考えているのか、俺には分からない。窓の外で、遠くを江ノ電が走る音が、かすかに聞こえた。
そのとき、始業前の小さいチャイムが鳴って、何人かが本を閉じた。一ノ瀬さんも、しおりの紐をそのページにはさんで、白い背の表紙を閉じる。背が、また俺と反対のほうを向いた。
でも、おとといまでとは、ひとつだけ違っていた。おはよう、は今日も言えなかったけど、それとは別の一言が、二人のあいだをちゃんと渡っていった。
机に出したままの俺の指先が、さっきまでの坂の冷たさを、いつのまにか忘れていた。
午前の授業は、頭の半分がずっと上の空だった。
一時間目の英語も、二時間目の現代文も、ノートは取っているのに、何を書いたのかあとで見ても思い出せそうになかった。黒板の字を写しながら、戻って読む、という小さい声が、耳の奥で何度も再生される。四時間目が終わるチャイムで、やっと腹が鳴った。
昼休みのグラウンドは、風が出ていた。
晴れているのに、ボールを蹴るたび、冷たい風が耳に当たって痛かった。弁当を急いでかきこんで出てきた大地が、半袖のジャージのままドリブルしている。土のグラウンドは乾いていて、蹴るたびに白っぽい砂ぼこりが少し舞った。
「今日さ、お前、朝めずらしく静かだったな」
パスを出しながら、大地が言った。朝の教室で俺が一ノ瀬さんと小さくしゃべっていたのを、見ていたわけじゃないと思う。ただ、俺がいつものように騒がなかったのが、こいつには分かるらしい。
「寒くて声出なかった」
「さっきから出てるじゃん」
俺はボールを強めに返して、話をそらした。本のことも、あの人のことも、ここでは言わない。言ったら、全部、軽い話に変えられてしまう。
ボールを追って、俺はまた三階を見上げた。窓際のいちばんうしろの席は、今は空いていた。昼休み、あの人はどこで、あの本の続きを読んでいるんだろう。
「おい、よそ見」
大地の声で、ボールが足もとをすり抜けていった。
「今のは風」
「お前、言い訳の種類だけは多いな」
笑いが起きて、俺もつられて笑った。この輪の中でなら、どんな言い訳も、誰かが拾ってくれる。
放課後の掃除を終えて外に出ると、空はもう橙に傾いていた。
五時前なのに、十一月の日は低い。自転車で坂をのぼると、行きに下った道が、帰りはずっと長く感じた。ペダルが重い。海のほうはもう灰色に沈んで、朝かすんでいた富士山は、今度こそ完全に見えなくなっていた。
家に帰って、夕飯を食べて、風呂に入って、部屋に戻った。居間を通ったとき、こたつで千夏がスマホをいじっていて、顔も上げずに、おかえり、とだけ言った。母はまだ帰っていなくて、父がテレビの天気予報を見ていた。明日もよく晴れるらしい。
夜、机の前で筆箱を開けた。
二つに折れたくじの紙と、くしゃくしゃの貸出レシートが、いつもの場所に入っている。おとといまでと、中身は何も変わっていない。
でも今日は、スマホで何も検索しなかった。星とも、光とも、打たなかった。
戻って読む、と言った小さい声を、もう一回だけ思い出す。一回で読むと、もったいない。あの人は、同じところを行ったり来たりして、ゆっくり読んでいる。何日もかけて、まだ同じあたりにいる。
急がなくていいのかもしれない。何の本かも、土曜の謝りも、まだ全部そのままだけど、今日、一言だけは渡せた。
俺は筆箱を閉じた。星とも光とも、今日は一度も打たなかったスマホが、机の上で、ずっと暗いままだった。
声を読み込んでいます…