第5話
まだ消えない光
「お兄ちゃん、祝日くらい、もうちょっと寝てれば」
千夏が、こたつに顎をのせたまま薄目を開けた。火曜の朝。文化の日で、学校も父の市役所も休みだ。なのに俺は七時過ぎに起きて、台所でトーストを焼いていた。
「目が覚めた」
「嘘くさ」
父はソファで新聞を広げ、母は歯科の受付が祝日もあるとかで、朝から出ていった。カーテンを開けると外は晴れていた。でも空の真ん中あたりに、薄く刷いたような雲が広がっていて、日ざしがまっすぐには落ちてこない。庭の物干しで、母が干していったタオルが揺れていた。
秋晴れというには、少し白っぽい朝だった。気持ちは、それよりもっと晴れていなかった。
昨日の教室の、あの白い背表紙が、まだ頭の裏に貼りついている。星が、どうとか。遠くの光が、どうとか。半分しか読めなかったタイトルが、夜のあいだも消えなかった。
トーストにバターを塗る手が、途中で止まった。聞けばいい、という話だ。何の本ですか、って。でも土曜の図書館でやらかした滑りを、まだ一言も謝れていない。あの沈黙のあとで、今さらその口で本のことなんか聞けるわけがなかった。
「お兄ちゃん、バター塗りすぎ」
千夏の声で我に返った。パンの端から、バターが溶けてこぼれていた。
昼を食べて少し経ってから、俺は自転車を出した。
「どこ行くんだ」と父が聞いたので、「図書館。母さんの本、もう一冊あった気がする」ととっさに嘘をついた。ほんとは、返す本なんてもうない。
坂を下る。火曜の午後の道は、祝日のせいか人が多かった。ベビーカーを押す親子や、犬を連れた年寄りが、歩道をゆっくり歩いている。海の方から、潮の匂いにまじって、どこかの家の焼き魚みたいな匂いがした。並木の落ち葉は土曜よりさらに増えて、側溝のへりに吹きだまっている。
坂の途中の市立図書館は、土曜に澪と会ったあの場所だ。自動ドアをくぐると、暖房のきいたあたたかい空気と、紙とほこりの混じった匂いが、いっぺんに押し寄せてきた。祝日の館内は思ったより混んでいた。閲覧席はほとんど埋まっていて、小さい子を連れた家族が絵本のコーナーにしゃがんでいる。
俺は、その絵本のコーナーの前を通り過ぎた。
土曜に澪が本を返していたのは、たぶんこの児童書の棚だ。弟のための、海の生き物の図鑑。でも、昨日あの人が読んでいたのはここじゃない。文字だけの、分厚い文庫本。あれは、もっと奥の棚にある。
一般書の棚は、館内のいちばん奥にあった。
背の高い書架が何列も並んでいる。背の端に貼られた小さなラベルに、数字が振ってあった。913、とか。棚ごとに、本の種類で分かれているらしい。日本の小説、と札の出ている列の前で、俺は足を止めた。
ずらりと並んだ背を、端から目で追っていく。あ行、か行、さ行。作者の名前の順に並んでいるみたいだった。でも、俺が知っているのは作者の名前じゃない。星と、遠くの光。それだけだ。
入口の近くに検索用のパソコンがあったのを思い出して、戻った。画面に、本のタイトルや作者を打ちこむ欄がある。俺は「星」とだけ入れて、検索を押した。
何百件も出てきた。星が、光が、似たようなタイトルが延々と並んでいく。半分しか見ていない背表紙じゃ、どれなのか、まるで決め手がなかった。「遠くの光」でもう一度打ち直すと、今度は数が減った。その中の一つのタイトルを、俺はしばらく見ていた。表示された棚の番号をスマホで撮って、さっきの奥の棚に戻った。
番号を頼りに、棚の前にしゃがみこんだ。
背表紙を、下から順に目でなぞる。指が、一冊の白い背の前で止まった。カバーを外したら、こんな色になるんじゃないか、という白。細い字で入ったタイトルに、「星」の字と「光」の字が、両方あった。
抜き取ると、思ったより軽かった。文庫本は、手のひらにちょうどおさまる。表紙のカバーはちゃんとかかっていた。澪が読んでいたのはカバーなしだったから、同じ本かは分からない。でも、背のタイトルの字の形は、昨日の一瞬と重なった。
近くの閲覧席が一つだけ空いていた。俺はそこに座って、本を開いた。
最初から、数ページだけ読んだ。遠くの町に引っ越した誰かが、夜ごとに空の同じ一点の光を見上げる、みたいな始まり方だった。その光が、実はもう何万年も前に消えた星の、消える前の光なんだという話が、静かな文章で続いていた。今見えているのは、とっくにいなくなったものの、最後の光なんだと。
ページをめくる指が、少し遅くなった。
窓から入る午後の光が、机の木目の上で白く散っていた。館内の気配の音――紙をめくる音、椅子を引く音、遠くで子どもがぐずる声――が、水の底で聞くみたいにやわらかくなっていた。
あの人が、始業前のあの静かな時間に、こういう話を読んでいたのか。おとなしくて、声が小さくて、男子が近くに来ると机を離す、あの人が。ひとりで、もう消えた星の光の話を読んでいた。
それ以上は、勝手に決めないことにした。本を一冊見ただけであの人の中身が分かった気になるのは、違う。俺はまだ、何の本ですかの一言も言えていないんだから。
本を閉じて、立ち上がった。
借りて帰ろう、と思った。もう一度、ちゃんと最初から読んでみたかった。貸出のカウンターへ本を持っていくと、職員の人が「カードはお持ちですか」と聞いた。
カード。土曜に俺が返したのは母の本で、母のカードで借りたやつだ。俺自身の貸出カードは、作ったことがない。
「あの、持ってなくて」
「でしたら、学生証があれば、その場で作れますよ。住所の分かるものでも」
鞄の中に、学生証は入っていた。出せば、たぶん五分で作れる。でも俺は、なぜか、その場で手が動かなかった。
この本を借りて帰っても、別に誰にも知られない。知られないのに、カウンターの前で、急に、これは自分で見つけるものじゃない気がした。本のことは、やっぱり、あの人の口から聞きたかった。
「すいません、また今度にします」
俺は本を持って、奥の棚へ戻った。番号の場所に、抜いたときと同じ向きでそっと差しこむ。白い背が、ほかの背とそろって、また棚の中に紛れた。どれだったか、もう一回探さないと分からないくらいに。
図書館を出ると、外はもう暗くなりかけていた。
四時半を回ったばかりなのに、西の空の低いところだけが薄い橙で、あとは濃い灰色に沈んでいた。十一月の日は、ほんとにあっという間に落ちる。坂をのぼる自転車のペダルが、行きより重い。指先が、ハンドルの冷たさでじんと痛くなった。
借りればよかったのかもしれない。でも、借りなくてよかった気もした。
結局、何の本かは、今日もちゃんとは分からないままだ。タイトルも作者の名前も、頭の中でもう半分あやふやになっている。確かなのは、あの白い背に「星」と「光」の字があったことと、それが、もう消えた星の光の話だったこと。
坂の上まで来て、一度だけ振り返った。海は、暗くてもう見えなかった。江ノ電の音が、坂の下から遠く聞こえた。
家に帰って、机の前に座る。筆箱を開けると、くじの紙と、くしゃくしゃの貸出レシートが、いつもの場所にあった。俺はその横に、もう一枚なにか置きたくなって、何もないことに気づいた。
今日、持って帰ってこられたものは、何もなかった。
声を読み込んでいます…