第4話
背表紙
月曜の朝は、やけに空気が澄んでいた。
先週の終わりに吹いた北風のせいらしい。坂を自転車で下りていくと、ペダルを踏むたびに冷たい風が頬の横を通り抜けていった。並木の下は落ち葉でいっぱいで、タイヤがその上を走ると、かさかさと乾いた音がした。枯れ葉の匂いが、潮の匂いより先に鼻に届く。この前の土曜、図書館の帰りにかいだのと同じ匂いだった。
学校の下駄箱で上履きに履き替えて、三階まで階段をのぼる。廊下の窓から、海がいつもより遠くまで見えた。足を止めて、その輪郭をもう一度目で追う。海の向こうに、富士山の輪郭が白く立っていた。いつも夕方に海の上に見るシルエットとは違って、朝の光の中では、山のへりがくっきり線になって引かれている。
教室の引き戸を開けると、床に窓枠の影が長く伸びていた。朝の光が低いせいで、机の脚のあたりまで格子の影がかかっている。
窓際のいちばんうしろ。俺の席の、その隣。
一ノ瀬さんは、もう来ていた。
生成り色のマフラーを椅子の背にかけて、机に本を一冊開いている。始業前の、まだ半分の人しか来ていない静かな時間だ。何人かが同じように本を開いて、教室全体が声をひそめていた。
俺は自分の席に、音を立てないように座った。机と机のあいだには、あいかわらず十二センチの隙間がある。先週、俺が自分で広げたぶんだ。
おはよう、の一言が、のどの手前で止まった。
土曜のことが、頭の裏にずっと張りついている。本、借りすぎて、腕、鍛えられてる?――力こぶを作った、あの手。返ってこなかった沈黙。あれを、今ここで笑い話にできるほど、俺の口は軽くなかった。向こうも、きっとそうだ。
一ノ瀬さんは、俺が座ったのに気づいて、肩をほんの少し動かした。顔は本に向けたまま、横目でこっちを見た気がした。目は合わなかった。合わないように、お互いに外していた。
言いたいことは、たぶん、どっちにもあった。
俺は筆箱からシャーペンを出して、意味もなく芯をかちかち出した。
始業のチャイムの少し前に、小野寺先生が入ってきて、プリントの束を前から回しはじめた。
「進路希望の下書き、配るよー。今日じゃなくていいから、目だけ通しといて」
プリントが、列の前から後ろへ流れてくる。俺の前の席のやつが、肩ごしに一枚よこした。俺は自分のぶんを取って、残りを隣に回そうとした。
手が、途中で止まった。
一ノ瀬さんに、紙を直接渡すのはまずい。土曜のことがあった今は、なおさらだ。俺はプリントを一枚、二人の机のあいだの隙間に、そっと置いた。十二センチの、ちょうど真ん中に。角を合わせて、まっすぐに。
一ノ瀬さんは、少しのあいだ、その紙を見ていた。それから指先でそれを引き寄せて、「ありがとう、ございます」と、本当に小さな声で言った。俺にというより、紙に向かって落とすような言い方だった。
その拍子に、開きっぱなしの本のページが、窓からの風で少しめくれた。
海の生き物の図鑑じゃなかった。
それは、子ども向けの絵の本じゃなくて、文字だけの、分厚い文庫本だった。カバーはかかっていない。ページがめくれた反動で、閉じた背表紙が一瞬だけ、俺のほうを向いた。
白い背に、細い字でタイトルが入っていた。星が、どうとか。遠くの光が、どうとか。全部は読めなかった。でも、弟のために借りた図鑑じゃなくて、この人自身が選んで、自分のために読んでいる本なんだと、それだけは分かった。
一ノ瀬さんは、めくれたページを手の甲でそっと押さえて、元の場所に戻した。星の本の背は、また向こうを向いた。
俺はプリントに目を落としたふりをして、進路希望の欄をぼんやり見ていた。文系。理系。第一志望。何も書く気になれなくて、ただ、さっきの白い背表紙のことだけが、頭の裏に残っていた。
昼休みのグラウンドは、朝の冷えがうそみたいに暖かかった。
十一月の昼は、晴れると小春日和になる。日なたに立っていると、ジャージの背中がじんわり温まってくる。弁当を五分でかきこんで、俺は大地たちとボールを蹴りに出た。土のグラウンドが、乾いて白っぽい。
「で、土日なにしてたの」
大地がドリブルしながら、顔だけこっちに向けた。声がでかいから、聞かれたくないことほど周りに響く。
「フットサルして、あとは家。ゴミ拾い付き合わされた」
「渋い。彼女は?」
「いねえよ」
大地は、金曜の夜に送ってきた〈隣、一ノ瀬じゃん〉のことを、まだ覚えている顔だった。何か探るように、にやにやしている。俺はパスを強めに返して、話をそらした。図書館のことも、あの白い背表紙のことも、言う気はなかった。言ったら、きっと全部、軽い話に変えられてしまう。
ボールが足もとから跳ねて、俺はそれを追って、ふと三階を見上げた。
窓際のいちばんうしろ。あの席に、一ノ瀬さんがいた。こっちを見ているわけじゃない。本を読んでいるんだろう、顔が下を向いている。生成り色のマフラーの色が、三階からでも分かった。
「おい、陽太、よそ見すんな」
大地の声で、我に返った。足もとを、ボールがすり抜けていった。先週の金曜も、同じところでパスを外していた。
「今のはボールが速かった」
「お前いっつもそれ言うな」
全員で笑って、俺ももう一回、わざと空振りして見せた。この輪の中なら、口から出たことは全部、誰かが拾ってくれる。拾ってくれない場所で同じことをやったら、どうなるかは、もう知っていた。
放課後は、あっという間に暗くなった。
掃除を終えて教室を出るころには、窓の外の空がもう橙に傾いていた。四時台なのに、十一月の日は低い。廊下の窓から見た海は、朝のあの澄み方が嘘みたいに、灰色がかって見えた。富士山の輪郭は、もうかすんで消えかけていた。
自転車で坂をのぼる。来た道を逆にたどると、朝はかいだ枯れ葉の匂いが、夕方の冷えた空気の中では少し薄くなっていた。指先が冷たくて、手袋をしてくればよかった。
家に帰って、夕飯を食べて、風呂に入って、部屋に戻った。机の前に座って、筆箱を開ける。二つに折れたくじの紙と、その横に、くしゃっとなった図書館の貸出レシート。どっちも、捨てそびれたままそこにある。
スマホで、何の気なしに検索窓を開いた。「星」「小説」とだけ打って、手が止まる。朝に見た白い背を、もう一度頭の中でなぞった。星。遠くの光。それだけじゃ、何も出てこなかった。
俺はスマホを置いて、天井を見た。弟の図鑑のことなら、きのうの夜、青い魚まで調べがついた。でも今度のは、背表紙を半分見ただけで、手がかりが足りない。
何の本なのか、やっぱり、聞くしかない。
聞けるだろうか。土曜のことも、まだ、ちゃんと謝れていないのに。
筆箱のレシートを、指先で一度だけ押さえた。返却期限の日付が、もう過ぎている。
声を読み込んでいます…