第3話
青い魚
「お兄ちゃん、それ、朝からため息三回目だよ」
千夏が、こたつに入ったままこっちを指さした。日曜の午前、俺は台所のテーブルでトーストをかじりながら、気づくと窓の外を見ていた。
カーテンのすき間から入る日なたが、テーブルの木目を細く照らしている。外では、どこかの家の洗濯機が回る音と、スズメの声がしていた。父はソファで新聞を広げ、母はパートでいない。テレビからは、音を絞ったニュースが流れている。
「ついてない」
「ついてるし。はい四回目」
指が折られていく。俺は言い返す言葉を探したけど、何も出てこなかった。
トーストの最後のひと切れを口に入れて、麦茶で流しこんだ。皿を流しに置いて、水を出す。冷たい水道の水が、指の付け根を冷やした。手を洗っているあいだに、ふと、昨日の図書館のことが頭の中で勝手に再生された。
本、借りすぎて、腕、鍛えられてる?
力こぶを作ったあの手と、返ってこなかった沈黙。
「うわ」
声が出た。蛇口の水が、手の甲を無駄に打っていた。
「今の『うわ』、昨日の帰りと同じやつじゃん」
千夏はテレビを見たまま言った。俺は蛇口を閉めて、濡れた手をジャージの腿でぬぐった。言い返したかったけど、何も浮かばなかった。
昼を食べたあと、父が「堤防、ゴミ拾いの当番だって回覧板来てたぞ。付き合え」と言った。町内会の清掃が午後からあるらしい。断る理由もなくて、俺はサンダルをつっかけて父の後ろについて家を出た。
玄関を出ると、昼の空気はまだあたたかかった。路地のアスファルトが日ざしを吸って、足の裏がほんのり熱い。家から海の方へ、路地を五分も下ると、小さな漁港に出る。並んだ漁船のロープが、くいに巻きつけられて軽く軋んでいた。空は昼のあいだは晴れていたのに、午後になって薄い雲が広がりはじめていて、日ざしがさっきより白っぽい。潮の匂いが、路地にいたときより一段濃くなった。
清掃は三十分ほどで終わった。軍手をはめて、空き缶やペットボトルや、波で打ち上げられた海藻のかたまりを、父や近所の人と拾って回った。ビニール袋がだんだん重くなる。父が近所のおじさんたちと立ち話を始めたので、俺は軍手を外して、堤防の先のほうへ一人でぶらぶら歩いた。コンクリートの表面は、日なたの部分だけ生あたたかかった。
堤防には、釣り人が何人かいた。十一月の海は、思ったより人が出ている。折りたたみの椅子に座った人、クーラーボックスに腰かけた人。一人が、仕掛けを海面で小刻みに上下させて、しばらくして竿を立てた。銀色の小さな魚が、糸の先で何匹も跳ねている。
「お、イワシ入ってるねえ」
隣のおじさんが声をかけていた。足もとの白いバケツをのぞくと、小魚が十数匹、ぎっしり身を寄せて泳いでいた。背中が青くて、腹が銀色で、水の中で向きを変えるたびに光が走る。一匹が動くと、全部が同じ方へ向きを変えた。水面がぱしゃりと鳴って、しぶきが一滴、俺のサンダルの先に落ちた。
その群れを見ていて、昨日の本の表紙を思い出した。
青い魚が、ページの外までこぼれそうに描かれていた、海の生き物の図鑑。一ノ瀬さんが返却台に置いた、あの本だ。
あの絵の魚も、こんなふうに群れていた。
堤防の風が、首のうしろから入ってきた。昼にあった日なたのあたたかさは、海の上ではもうどこにもない。晴れ間はほとんど雲に隠れていて、海の色が灰色に近づいている。ポケットでスマホが震えた。大地だった。
〈明日、昼いつものグラウンドな〉
おととい送った〈べつにって何〉の下に、ぽつんと新しい一行が足されていた。あいだのことには、お互い触れないことにしたらしい。
〈了解〉
とだけ返して、一ノ瀬さんのことは何も書かなかった。気になりはじめた理由は、大地にも言っていない。言うつもりもなかった。
バケツの魚が、また一斉に向きを変えた。
父の立ち話が長引いて、家に戻るころには、四時を回っていた。十一月の日は低くて、路地を上がるあいだにもう西の空が薄い橙に染まりはじめている。帰り道の塀の上で、どこかの家の猫が丸くなって、こっちを一度だけ見た。海の上の雲の、下のへりだけが鈍く光っていた。
夕飯まで、部屋でだらだらしていた。ベッドに転がって天井を見ていると、堤防のバケツの、青い背中の小魚が目の裏に残っていた。窓の外で、だんだん暗くなっていく空の色が、カーテン越しに薄くなっていくのが分かる。
あれは、何て名前の魚だったんだろう。
おじさんは「イワシ」と言っていた。でも、本の表紙の魚が、ほんとにイワシなのかは分からない。
気づくと、スマホで調べていた。「海 魚 群れ 青い」と打って、画像を並べる。似たような青銀の魚が、いくつも出てきた。イワシ。アジ。この辺の海で、秋から冬に岸の近くまで寄ってくる魚たちらしかった。堤防のバケツにいたのと、同じ顔をしていた。
十一月はイワシがいちばんうまい時期だ、という文章まで出てきて、俺は関係ないのに最後まで読んだ。指がかってに次のページをめくっていく。
一ノ瀬さんの弟は、この魚の絵を見ているんだろうか。あの本を開いて、何を思うんだろう。
そこまで考えて、手が止まった。
スマホを伏せて、天井をもう一度見た。
夕飯は、鮭の塩焼きだった。パートから帰ってきた母が焼いたやつで、皮の焦げた匂いが台所に満ちていた。千夏が「魚つながりじゃん」と言ったけど、母には意味が通じていなかった。俺にだけ通じて、少し嫌だった。箸でほぐした白い身から、まだ湯気が立っていた。
風呂から上がって部屋に戻ると、窓の外はもう真っ暗だった。四時台に傾きはじめた日は、あっという間に落ちていた。髪の先からしたたった水が、首すじを一滴伝った。
机の前に座って、筆箱を開ける。二つに折れたくじの紙が、指先に当たる。30。
その隣に、ペンを一本どけると、細長い紙きれがくしゃっとはさまっていた。昨日、母の本を返しに行ったとき、ページのあいだから出てきた貸出のレシートだ。返却期限の日付が、薄く印字されている。どうでもいい紙きれなのに、なんとなく捨てそびれて、持って帰ってきていた。
俺はそれを、くじの紙の横に戻した。
明日は月曜だ。教室で、十二センチの隙間を置いて、あの人はまた本を読んでいる。
何の本か、今度こそ聞けるだろうか。
枕に顔を半分うずめて、俺は目を閉じた。暗いまぶたの裏で、バケツの小魚がまた一斉に、同じ方を向いた。
声を読み込んでいます…