第2話
返却カウンター
「陽太、そこ決めろって、決めろ!」
大地の声が、海からの風に半分持っていかれた。土曜の午前、海沿いの公園のわきの、金網で囲ったフットサルコート。中学からの友達が五人集まって、休みの顔で走り回っている。大地は午後から部活があるらしく、午前だけ顔を出していた。
朝の九時すぎ、人工芝はまだ夜露で湿っていて、シューズでこするたびにきゅっと高い音が鳴った。金網の影が、コートの端にまっすぐ落ちている。遠くで、波の音が途切れずに続いていた。
俺はトラップし損ねたボールをつま先でつつき直して、思いきり空振りした。
「今のはボールが避けた」
「ボールに意思はねえよ」
誰かが笑って、俺はもう一回、わざと空振りして見せる。ここでは思いついたことを全部そのまま口に出していい。すべっても平気だ。拾ってくれるやつがいるからだ。
大地がドリブルで抜こうとしてきたのを、俺は足を出すふりだけして、わざと素通りさせた。「ディフェンス!」「今のは譲ったの」「偉そうに」。言い合いながら、全員で笑う。この輪の中なら、口から出たことは全部、誰かがすぐに打ち返してくれる。
晴れていた。雲はほとんどなくて、空は高い。それなのに風だけが冷たくて、ボールを追って立ち止まるたびに、指先から順に冷えていく。十月の終わりの海風は、日なたの暖かさとは別の場所から吹いてくる。
二時間蹴って、自販機の前で解散した。買ったココアの缶を両手で包むと、手のひらだけが熱くて、残りの指はまだ冷たいままだった。
汗が引くと、背中のあたりから一気に冷えてきた。みんなと駅前のほうで別れて、俺は自転車を押しながら、来た坂をゆっくりのぼった。海から離れるにつれて、潮の匂いが薄くなって、かわりに枯れ葉の匂いがした。
家に帰り着いたのは、ちょうど昼だった。母はパートでいなくて、父が録画したサッカーを見ていた。俺はレンジで焼きそばを温めて一人で食べ、そのままソファで動画を流して、だらだらしていた。
テレビの横の時計が二時を回ったころ、父が「それ、今日までだろ。返してきてくれ」と、台所のテーブルを指さした。本が二冊、重ねて置いてある。母に頼まれていた返却期限が、今日までだった。
自転車にまたがって、もう一度坂を下る。市立図書館は坂の途中にあって、歩いても自転車でもすぐだ。午後の日ざしはまだ高いのに、建物の陰に入るとひんやりした。
自動ドアの内側は、外の風がうそみたいに静かだった。紙とほこりと、あと暖房の乾いた匂い。入口のわきに、茶色やオレンジの小さな飾りがぶら下がっている。今日はそういう日らしい。
土曜の午後の館内は、思ったより人がいた。参考書を広げた受験生らしい背中や、絵本の棚の前にしゃがんだ親子連れ。靴の底が床を鳴らさないように、歩き方が自然と静かになる。
カウンターに本を二冊のせて、職員さんが機械にかざすのを待っていた。そのとき、返却用の台の向こうに、生成り色のマフラーが見えた。
一ノ瀬さんだった。
制服じゃなかった。紺色のコートに、あのマフラーをしていた。胸に薄い本を何冊か重ねて抱えている。顔を上げた一ノ瀬さんと、目が合った。
学校の外で会ったのは、はじめてだった。昨日、隣の席になったばかりの人が、全然ちがう場所に立っている。どっちも、足が止まった。
「……あ」
一ノ瀬さんの口が、そのかたちだけ動いた。声はほとんど出ていない。抱えた本を、少しだけ胸に引き寄せた。
向こうも、何を言えばいいのか分からない様子だった。マフラーの上で、あごのあたりがほんの少しこわばって見える。カウンターの白い光が、返却台の木の天板に細く反射していた。
沈黙が長くなるほど、一ノ瀬さんの肩が固くなっていくのが見えた。それで、何か言わなきゃと、口が先に動いた。
二時間ぶんのフットサルのテンションが、まだ体のどこかに残っていた。
「本、借りすぎて、腕、鍛えられてる?」
言いながら、空いた手で力こぶを作るポーズまでしていた。コートでなら、大地が「どういう理屈だよ」とすぐ拾ってくれるやつだ。
拾う人は、いなかった。
一ノ瀬さんは笑わなかった。肩をわずかに跳ねさせて、視線をカウンターの木目に落とした。本を抱えた腕に、きゅっと力が入ったのが分かった。
乾いた暖房の音だけが、天井のあたりでずっと鳴っていた。
俺の手のひらには、さっき握っていたココアの缶の熱が、まだ少しだけ残っていた。その熱が引いていくのと同じくらいの速さで、今度は顔のほうが熱くなってくる。
滑った、なんてもんじゃなかった。
職員さんが「返却、二冊ですね」と俺の本をすべらせて、俺は「はい」と、やけに小さい声で受け取った。力こぶを作っていた手を、そっと下ろす。
「……ごめん、今の、忘れて」
自分で言って、よけいに恥ずかしくなった。
一ノ瀬さんは首を小さく横に振った。それから、抱えていた本を一冊、返却台の端にそっと置いた。表紙に、海の中の生き物の絵が描いてある。図鑑みたいな、子ども向けの本だった。青い魚の群れが、ページの外までこぼれそうに描かれていた。
「弟、小学生?」
本の絵を見たまま、俺は聞いた。
「六年、です」
ほとんど聞こえないくらいの声だった。俺に向かってというより、置いた本に落とすような言い方だった。
一ノ瀬さんに弟がいることも、ここに本を借りに来ることも、俺は知らなかった。教室の窓辺で本を読んでいる横顔の、その続きの時間が、こういうところにあるんだと思った。
「俺も妹いる。中二。口が悪い」
言ってから、これはべつにギャグじゃないのに、と自分で思った。
一ノ瀬さんは、口もとにそっと手をあてた。笑うとき、いつもそうする。ほんの少しだけ、目が細くなった気がした。気のせいかもしれない。
「……そう、ですか」
それだけだった。でも、さっきの固い肩より、ほんの一ミリやわらかかった。
一ノ瀬さんは残りの本を職員さんに渡して、会釈して、出口のほうへ歩いていった。マフラーの端が、ドアの風で揺れた。
図書館を出ると、昼にあったはずの風はやんでいて、かわりに空気が一段ひんやりしていた。自転車にまたがって、来た坂をそのまま下る。ペダルを踏みこむたびに、さっきの沈黙が、後ろからついてくる感じがした。
家に着くころには、空はもう橙と藍のあいだに傾きはじめていた。四時半を回ったばかりなのに、十月の終わりの日はずいぶん低い。海の上の雲が、下のほうだけ赤く焼けていた。
玄関を開けると、こたつから千夏の声が飛んできた。
「おかえりー。なに、その顔」
「どの顔だよ」
「死にそうな顔」
テレビの前に転がったまま、千夏がみかんをむいている。俺は返事をしないで、冷蔵庫から麦茶を出した。
「さては、なんかやらかしたでしょ」
「やらかしてない」
「声裏返ってる」
麦茶を飲みながらスマホを見ると、大地とのトークは、昨日俺が送った〈べつにって何〉が、既読のまま止まったままだった。何か送ろうとして、やめた。
夕飯はカレーだった。母はまだ帰っておらず、父が温め直したのを、千夏と二人で食べた。千夏は食べながらも、ときどきこっちをちらちら見て、にやにやしていた。何も言い返す気になれなくて、俺は黙ってスプーンを動かした。
夕飯のあと、風呂に入って、部屋のベッドに倒れこんだ。目を閉じると、図書館の乾いた暖房の音が、まだ耳の奥で鳴っている気がした。
本、借りすぎて、腕、鍛えられてる?
力こぶを作ったあの手と、返事のない沈黙が、順番によみがえってくる。
「うわ」
声が出た。枕に顔を押しつけて、もう一回「うわ」と言った。コートでなら拾ってもらえる。拾ってくれる人がいない場所で同じことをやると、言葉はただ、落ちて、そのまま転がっていくだけなんだと知った。
なのに、おかしかった。あのあと一ノ瀬さんは、逃げなかった。弟の話をした。口もとに手をあてた。笑ったように見えたのは、たぶん、ほんの少しだけだ。
俺は布団の中で、筆箱に手を伸ばした。暗い部屋で、二つに折れたくじの紙が、指先に当たる。30。
海の中の生き物の表紙を、もう少しちゃんと見ておけばよかった。何の本だったのか、聞きそびれた。
声を読み込んでいます…