第1話
十センチ
「はい、一人一枚。引いたら黒板の番号のとこね。文句は受け付けません」
小野寺先生が、クッキーの空き缶をがしゃがしゃ振った。朝のホームルームの席替えは、毎回これだった。
「先生、それ中身クッキーのほうがよくないですか」
俺が言うと、前のほうで何人かが吹き出した。小野寺先生は缶を振る手を止めずに「瀬尾は最後ね」とだけ返した。また笑いが起きる。べつにウケを狙ったわけじゃなくて、思ったことが口から出ただけだ。だいたいいつも、そうなる。
本当に最後に回ってきた缶の底には、紙が一枚だけ残っていた。開くと、30。
黒板の図を見る。窓際の、いちばんうしろだった。
「うわ、陽太が当たりかよ」
教卓の前を引いた大地が、天井をあおいだ。
「日頃の行いだろ」
「お前の日頃の行いでそこなら、俺は何したんだよ」
椅子を机の上にのせて、通路をすり抜ける。窓際の列まで来ると、床に窓枠の影が長く伸びていて、その上を机の脚で踏んだ。
窓の外に、海があった。
丘の上の三階だから、国道の向こうの海が、建物のすき間からちゃんと見える。十月の終わりの朝の光は低くて、海の表面だけが白っぽく光っていた。
隣の29番を誰が引いたのかは、席を立つ前から分かっていた。一ノ瀬澪が紙を開いたとき、俺は自分のくじより先にそっちを見ていたからだ。去年の終わりごろから、気づくと一ノ瀬さんのほうを見ている。
筆箱のチャックを開けたり閉めたりしているうちに、机が、隣に置かれた。
置かれたというより、そっと下ろされた。生成り色のマフラーの端が、視界の左のすみで揺れる。
一ノ瀬さんは机の位置を一度だけ直して、それから、ほんの少しだけ窓のほうへずらした。俺の机とのあいだに、十センチくらいの隙間ができた。ほかの列の机は、どこもぴったりくっついている。
避けられたのかと思った。でも一ノ瀬さんは、前の席の男子が振り返ってプリントを回したときも、同じように少し体を引いていた。男子と話すとき、一ノ瀬さんはいつもそうだ。去年から同じクラスで、それくらいは知っている。
「よろしく」
言ってから、思ったより声が大きかったことに気づいた。一ノ瀬さんは肩を小さく跳ねさせて、こっちを見ないまま会釈した。
「……よろしくお願いします」
敬語だった。同じクラスになって七か月たつのに。
いつもなら、ここで何か言う。「敬語やめよ、同い年だし」とか「隣が俺で残念でした」とか。口の中までは出てきていた。けど、一ノ瀬さんの指がマフラーの端をきつく握っているのが見えて、そのまま飲みこんだ。ここで俺がいつもの調子でしゃべったら、たぶんこの人は、もう一センチ机を離す。
一ノ瀬さんはマフラーをほどいてたたみ、膝の上に置いた。十月なのに、もうマフラーをしている。寒がりなのか、それとも別の理由があるのか、俺は知らない。
窓から入る日なたが、俺の机と、十センチの隙間と、一ノ瀬さんの机の端を、同じ色に塗っていた。
三時間目の数学は、小テストの返却と答え合わせだった。
「隣と交換して、赤で丸つけ。自己採点は禁止な」
森先生の声で、教室のあちこちを紙が行き来しはじめた。
一ノ瀬さんは答案を二つに折ったまま、机の端に置いた。手渡しじゃなかった。俺の手に触れないように、なんだと思う。俺も同じように、自分のを隙間の手前に置く。一ノ瀬さんがそれを、指先だけで引き寄せた。
答案の字は、きれいだった。数字の一つ一つが同じ大きさで、イコールの線がまっすぐそろっている。問三で、符号が逆になっていた。その横に、鉛筆で小さく「?」と書いてある。自分でも、どこかで引っかかっていたらしい。
赤ペンの先が、バツを書く手前で止まった。自分で「?」までつけた人に、上から大きなバツを書くのは、なんだか違う気がした。
斜めの線を小さく入れて、マイナスの記号のところに点を一つ打つ。ここだよ、くらいの意味で。
戻ってきた俺の答案は、全部に丸がついていた。丸は小さくて、どれも同じ形をしていた。
一ノ瀬さんは問三の点に気づいたみたいだった。紙を指でなぞって、しばらく黙っていた。
「……ここ、ですか」
「そう。最後にマイナスかけ忘れてる。俺も中学のとき、それで毎回やられてた」
嘘だった。俺は数学で点を落としたことが、あんまりない。ただ、間違えたのは自分だけだと一ノ瀬さんに思われるのが、なんとなく嫌だった。
一ノ瀬さんは、鉛筆の「?」の上に、自分で小さく赤い丸をつけた。それから、ほとんど聞こえないくらいの声で言った。
「ありがとう、ございます」
昼休みは、いつものように大地たちとグラウンドに出た。部活じゃない。弁当を五分で流しこんで、チャイムまでボールを蹴るだけだ。
乾いた砂は、ボールが跳ねるたびに白い粉を上げる。大地のパスが少しずれて、俺はかかとで受けて、そのまま反転してゴール代わりのコーンのあいだに流しこんだ。
「今の見た? 今の見た?」
「見てない」
「見ろよ」
ゴールの向こうの校舎を、何気なく見上げた。三階の、窓際のいちばんうしろ。
窓辺に、本を読んでいる横顔があった。昼休みになっても、一ノ瀬さんはあまり席を立たない。距離があって表情までは分からない。ページをめくる手だけが、ときどき動いた。
「陽太、パス!」
返したボールは、思いきり大地の頭上を越えた。
五時間目の体育は、男女別だった。女子は体育館でバレー、男子は外でサッカー。着替えに向かう廊下で、一ノ瀬さんがジャージの袋を持たずに、佐伯さんと並んで保健室のほうへ歩いていくのが見えた。佐伯さんの手が、一ノ瀬さんの背中に軽く添えられていた。
そういえば一ノ瀬さんは、体育を見学していることが多い。体があんまり丈夫じゃないらしい、という話は、前に誰かがしていた。くわしいことは、たぶんクラスの誰も知らない。
六時間目が始まる前に、一ノ瀬さんは戻ってきた。顔が少し白かった。席に着くとき、椅子を引く音がほとんどしなかった。
具合の悪いときに、隣の男子の机が近いのは、きっと落ち着かない。俺は前を向いたまま、自分の机をほんの少しだけ、廊下側へずらした。
十センチが、十二センチくらいになった。
掃除当番を終えて、自転車で坂を下りた。五時前の空はもう橙色で、国道の向こうの海の上に、富士山の形が黒く浮いていた。信号待ちで止まると、ブレーキを握った手のひらだけが冷たい。
十二センチ。自分で広げたくせに、帰り道はその幅のことばかり考えていた。
家に帰ると、妹の千夏がこたつで寝ていた。テレビがつけっぱなしだった。肩をゆすると「あと五分」と言って、そのまま十分寝た。
風呂から上がって部屋に戻ると、大地からLINEが来ていた。
〈隣、一ノ瀬じゃん〉
〈だから何〉
〈べつに〉
〈べつにって何〉
既読がついたまま、返事は来なかった。
大地には、何も話していない。一ノ瀬さんのことが気になりはじめたきっかけも、誰にも話したことがない。
筆箱を開けると、二つに折ったくじの紙が、ペンのあいだにはさまっていた。
30。
捨てるタイミングを、なんとなく逃した。
声を読み込んでいます…